いのちだよ…
人間はこれまでいろんな機械を作って、自分の身の回りを効率化・快適化するシステムを作ってきた。しかし、気がついてみるとそのシステムの中のボトルネックになってしまっており、その事実に気づいて唖然とするようになったのが「21世紀」という時代なんじゃなかろうか、と思ってきた。
システムの部品としてあまりにダメであるからこそ、自分がダメでないということを何とかして証明して貰おうとする。これがいわゆる「癒しブーム」の底にあるものではなかろうか?
実際問題として、人間が既存の「システム」に立ち向かえないかというとそんなことはない。機械というものの本質を理解して、必要に応じて自分も鍛えまくれば、対等以上に渡り合うことが可能である。
しかし、圧倒的多数の人は、そのようにしてシステムの中での自己の存在意義を認めて貰おうとはしない。求めているのは、「努力ナシ。ただ自分がそこにいるだけで自分に機械とはことなる別の意味を認めて欲しい」ということ。小説のようなエンターティメントに対しては、このような要求はさらに過度になる。読んでて辛くなるような話を、金だして買おうとはワタクシだって思わん。
とは言うものの、徹底して相手の妄想通りに進むヌルい話だと、作品としての質が下がってしまい、読解能力の高い読者(いわゆるマニア)に支持されない。この層を捕まえておかないと、自分が作ったモノを他の作家と区別して貰えないので、売文家としての寿命は短くなる。死ぬまでこの業界で生きていこうとするのなら、相手のヌルい妄想を、一点でいいから裏切るような仕掛けを持ち込まなければならない。
以上のようなことを前提として小説なぞを書こうとすると、物語内の読者の分身である主人公に、ある大きな報酬を与え、その代償として何ものかを奪わなければならない。別に等価交換にする必要はないが、「取引」が一切欠けた状態だと、話全体がウソ臭り、リアリティが失われる。必然的な結果として、「よりよい妄想」ではなくなるのだ。
さてここで本題である。作中に姿の見えないメフィストフェレスとして現れた作者が、読者の分身たる主人公に「取引」を持ちかけるのだが、この読者困ったことに何も持ってない。人より優れた知恵も、身体的能力も何もない。そういう人間だからこそ「癒し」を求めて妄想小説なんぞを読もうというのだから、これについて文句を言うのはある意味間違っているので、メフィストは泣く泣く「しかたがないあんたのいのちを貰いましょう」ということになってしまうのだ。
結果的にこうやって作られた話は、近松なんぞの心中物に極めて似た構造を持つに至ると思う。読者が求める極上の美女との永遠との愛を保証してやるから、代償として命を投げ出せ、というパターンである。命が惜しいのなら、命をかけて何事かをなしとげればそれでいいのだが、それを辛いと読者が感じる間は、主人公に死んでもらうしかあるまい。
実はもう一つだけ「死なずに済む方法」というのはある。それは自分の価値というものを素直に認めてしまい、それとほぼ等価な報酬で満足する、というものだ。これだと主人公はラストで、絶世の美女と別れ、美人でも処女でもないし、性格もそれなりでしかないが、自分を等価のものだと認めてくれるパートナーと共に生きていく、という展開になると思う。
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