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May 04, 2005

国籍区別は差別じゃねえぞ

幼稚園の時に、先生から教わったことを思い出してみよう。
たぶん

「生まれた時から変えようがないものを理由に、人をいじめてはいけません」

と教えられたのではなかろうか。

単なる倫理レベルではなく、現実問題として、変更不能なものを理由に差別を行うと、最終的に殺し合いするしか解決方法はなくなる。これは不毛だ。というわけで、民族差別はあまりよくない。「あまり」と書いたのは、民族というラベルは多分に文化的なものなので、生まれた時から別環境に放り込めば、親とは違う民族になることが可能なことがあるからだ。例外は、その民族を規定する文化が、民族の条件として、特定の血縁を要求するケースのみだ。

が、国籍はどうか。19世紀ならともかく、現在は基本的な条件さえ整えれば変えることは可能だ。生まれた国でずっと生活しているならともかく、他の国に行き、そこで子々孫々ずっと生活すると決めた以上、行った国の国籍に変更するのは至極合理的な話であり、それでもなおかつ変更しない、ということは、そのことそのものが何らかの政治的な意思表示である、と解釈されても仕方がない。

でもって、政治的な意思表示に対して、利害を異にする集団から、同じく政治的なレベルで攻撃が加えられるのも、またもっともな話で、それがいやなら政治的なラベルを自ら剥がしてしまうしかない。政治的なラベルを剥がしたところで、生まれ持った変更不可能な属性というのは消えはしない。

日本における幼稚園での差別に関する指導がゆきわたっている場合、この時点でもって「差別」は消失するはずだ。小学校以上の教育というのは、卒業すると同時にきれいさっぱり脳裏から消し去るもの、というお約束が出来上がってはいるけれど、幼稚園における指導は別だろう。ここで学んだ原則というのは、結構一生残るし、比較的忠実に守られる。

てなわけで、今の日本においては「差別」はほとんど存在していない、と見てよい。差別をなくすための運動、というのはほぼその歴史的役割を終えた。彼らが糾弾しているのは、ほんの少しだけ残った例外と、政治的ラベルをつけたが故に受ける攻撃を「差別」に摩り替えたものに過ぎない。少なくとも、ワタクシはそんなもんに限りのある自分の時間を割いて参加する気はないし、同調する気もない。

で、最後だが、「藻男」というのも、生まれもって変更不可能なものではなく、多分に政治的ラベルに過ぎないのである。というわけでワタクシは彼らを攻撃する。無論、それがワタクシの背負っている政治的ラベルから発するものである以上、反論は受け付けるし、それを元にこちらを「差別」してもらっても結構である。

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May 01, 2005

拾った電波

フィクション系のものかきというのは、はっきりいって自分の狂気を切り売りしているようなもんである。

実際、某大手の出版社に行って編集さん(肩書きはデスク)と話をしたら、向こうはこちらがどの程度キチガイであるか、ということにしか興味を示さなかった。こっちとしては、自分がどれぐらいニセキチガイを演じられる技術を持っているか、について延々と語ろうとしたのだが、まるっきり聞こうとしなかった。やっぱり、もの売ってるところは割り切りがすごくきっぱりとしている。

とまあ、これは極端な例としても、版元が書き手に求めるのは、基本的に狂気である。が、それに応じて本物のキチガイになってしまうと、数年はまあ持つが、それ以上になるともう病気が取り返しのつかないところにまで進んでしまい、文壇はおろか社会人としてまともに生活できなくなってしまう。それがイヤだから、古株のものかきは本物のキチガイではなく、いかにしてキチガイを装うか、ということに心血を注ぐようになるのだ。

小説書きなどを始め、自分にその手の狂気の在庫が少ないことに気づいたワタクシは、何とかして手元に電波な人を置いておき、その毒電波を一杯に浴びてにわかキチガイとなってエシェシェエシェと仕事しようと考えた。が、そういう下心をもって募集かけると、案外電波というものは来ないのである。昨年後半から、かなりの人数の人を拾ってきたような気がするが、それらはみんな「類は友しか呼べない」という法則にきっちりと従った人ばっかだった。

が、春先に拾ったバイト希望者が、どうやらイキのいい電波らしかった。とにかく勘違いが激しい。経歴なんぞゼロに等しいのに、これから自分が書くであろう作品は、幾多の人を感動させるであろう大作であることを確信している……まあその分人の作品を、制作時の事情も知らんとけなしまくるんだが。

最初のうちは、これはいわゆる若さゆえの勘違い、というやつなんではないか、と考えたが、しばらくするうちに、これは若さゆえではなく、この年齢でも十分電波認定するべき逸材なんではないか、と思われてきた。大言壮語はするが、「実践」に対してはなんのかのと理由を設けて逃げまくる。とりあえず立ち向かって不完全ながらも何か残せれば、「やがて大人に成長する子供」で済むが、成果ゼロの自分を棚に上げて正当化を図ると、その将来は電波と呼ばれる亜人類へ逆進化以外にはない。

バイト希望者が実は電波であった、ということを知ったオフィスの連中は「使うな」と言ってきたが、ワタクシ自身は喜んだ。なんせこの半年間探してきて、見つからなかったものが手に入ったのである。できるだけそばに置き、機嫌を損ねないようにおだて、なおかつ実際の仕事にはまるでタッチさせないようにして、電波を出させてものかきの足しにしよう、と待ち構えていたのだが、そういうところには気が回るのか、電波はぷっつりと連絡を絶ち、自分のHPで「バイト先と(対等な立場で)喧嘩して事実上クビになった」とか書いていた。

最初の応募メールにそこのURL書いてたのに、その書き込みがこちらに見られていない、と思い込めるあたりがまさに電波なのだが、この状態でさらにちょっかい出すと、安全な状態に保つのが難しい。もったいないけど捨てる(つーか、頭かくして尻隠さずの音信不通状態を承認する)ことにした。

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死の情景

千年続く百姓家の跡取りであるワタクシにとって、死ぬ時のシチュエーションというのは生まれた時から決まっている。親戚一同が集まる中、自宅の布団の中で天寿を全うして大往生、というやつである。

映画「犬神家の一族」の犬神佐兵衛の死にざまを想像してもらえるといい。

ともかく、自分が死ぬ時に寝ている場所(家だね)、集まってくる親族、さらには死後争奪戦の対象となる財産(これはオプション)などというのを、生涯の間に築いていかねばならない、てのが、田舎の惣領の宿命という奴なのだ。勝手に一人で生きて、勝手に一人で野たれ死んではならないのである。無論、電波男のごとく、甘美な敗北に酔いしれるのみで、何一つ生み出すことがない、という貴族的特権(多分に逆説的なのだが)などは与えられていない。

無論、21世紀の現在において、こういう掟を守り抜かなければならない必然性は存在せず、惣領であろうともその義務を放り出して一人野たれ死にの人生を選ぶ権利も与えられている。が、ありとあらゆるものが放り出され過ぎ、その結果自分探しが大流行するようになってしまったこの時代においては、逆に掟を守りぬいた方が先々(自分の死後含む)にとって有益だと判断するので、うちの長男にはこの掟に基づいた教育を施そうと考える。息子よ。高安家を率いて崩壊した他の氏族の残滓どもを蹴散らし、自家だけを目いっぱい繁栄させ、俺よりも多くの親族に囲まれてその中で死ぬがよい。

というわけで、こやつには常に「自分の最期」を意識した生き方をさせたい。そのためには、一緒に墓に入る女性の存在を、早いうちから意識させておくに限る。つーわけで、息子の嫁候補を探してみようと思った。

こういうこと書くと、自称リベラルな方たちから「前時代的だ!個人の自由はどこにいった!」と指弾されるんだろうが、結婚相手をたかだか十数年間のまぐわいのパートナーだとしか考えられない連中の寝言など知ったことか。大事なのは、嫁候補を軸に、自分の将来というものを構想し、それを実現すべく努力する、ということであり、結果的にその相手と結婚するかどうかは2次的3次的なことに過ぎない。

何より、小さいときからそういう相手がいた、というシチュエーションは、やたらと萌えるものになるではないか……と、いかん本音が出た。

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