あっちこっちのニュースサイトに掲載されたおかげで、ここのページのアクセスカウンタがすんごい勢いでぶん廻った。が、開設以来で比較すりゃあ、二番目だ(一番廻ったのは故ソ○トマジック倒産の時)。
とまあ、それはともかく、ウケたら話の続きをするのが正しい商業文筆業者の道なので、前回の続きなど。
ワタクシは1000年続いた百姓家の長男として生まれているので、基本的にその立場を「是」とし、その要となっている家父長の復権、というのが現在の諸問題の解決に寄与する、と思ってる。
家父長の立場の復権、とかは、石原閣下とか細木数子とかも提唱しているが、あれはワタクシにしてみれば本質を見失った粗雑な論に過ぎない。彼らは「家父長は無前提で偉い」と思いこんでいるが、実はそんなことはなく「ある責務を果たすからこそ、一定以上の権力が与えられる」というのが正しい。
責務についてあれこれ説明するとくどくなるのでここでは割愛しちゃうけれど、そのうちの一つは「祭祀」であり、もう一つは「経済的基盤の維持」である。これを果たすからこそ、妻子を持つ権限(これも半ば以上義務だけれど)が与えられるようになる、というわけ。閣下とかの場合、「経済的基盤の維持」という観点(よーするに、妻子を食わせるということだ)は割とはっきり見えてるけど、「祭祀」という観点が抜け落ちている。細木某の場合、一見「祭祀」を重要視しているようにも見えるが、結局のところ墓石業者のセールスレディの口上に過ぎないのでマトモに聞く価値はない。
人間が永遠の生命を持ち、なおかつその能力が無限に発展していくものである、と仮定すると「祭祀」なんざまるで必要はないのだけれど、残念なことに死なない人間というのはお話の中にしか存在しない。誰もが老いやがてくたばっていくのなら、そこらの始末を正当づける理屈が必要だし、能力の発展が中年以降停止するのなら、もうこれ以上上を目指すことのできない連中をなだめるための理屈が必要になる。要するに、「阿片としての宗教」が要るんだ、ということですな。
んでも、近代民主主義とやらを支えている啓蒙思想ってのは、困ったことに人間の寿命とその能力の発展の可能性を無限、と規定することを基礎にしてるようなんですな。確かにそう仮定すりゃあ阿片としての宗教は不要だわ。が、これが少なくとも現時点においては現実と乖離している仮定だ、ということは明らかなわけで。やっぱり、要るんですよ阿片が。
この手の阿片というのは、怪しげな人間によって上から与えられるモノと、自然発生してじわじわ拡がっていくモノの二種類があると思うんですわ。前者の品質は、おおむね教祖となる人間の能力に比例するんですが、全般的に低質ですな。高校の歴史の教科書と内容的にあんまり変わらない「経典」書いてる教祖さまとかいるし。期待するべきは後者だと思われます。まああたしゃ「萌え」なるキーワードによって顕在化したオタ男性たちの「救われる(=癒される)ための方法論」てのは、実は後者であると考えておるのです。
というわけで、「癒される」ためにはナニが必要なのか、ということを考えてみようかと。
若いオスの場合、とりあえずは「ヤリたい」という欲求が考えられますな。が、現在のオタの場合、前回書いたようにどうもそのあたりの欲求は希薄で、それよりは自己が社会的存在として有用である、ということを認めてもらいたい欲求の方が強いみたいっす。ちなみにオタの場合、特殊浴場とかに引っ張っていって一発やらせると、その後で「僕が求めていたものはこんなのじゃない」って腕組みして悩んじゃうんですよね。あたしゃ本田透他数名を使って実験し、こういう傾向があることを確認しております。
性欲は全く消え去ったわけではないし、オタ自身が自分の欲望が「社会の中で認められること」と「性欲の成就」の2種に分類可能であることを明確に自覚していないから、これらは大抵ごっちゃになってるんですけど、そんでも「社会的に認められる=第二現実」と、「性欲の成就=第三現実」という形でまとめることが可能だよ、というと「なるほどそうか」と納得しちゃう人は結構いるかと思います。で、ほとんどの人が第二現実が第三現実に優越すると考える、と。第一現実の位置がどこになるのかは、あんまり深く考えてないです。でも、人により凄く差があるような気がする。
第二現実こそが絶対であり、第一・第三現実を切り捨てて第二現実を純化することこそ救いへの道である、とでも要約できるような教義が、今オタさんの間でもてはやされているような気がするんですが、これは「阿片」としての効能だけで言えば効果は抜群だと言えるでしょう。第一現実を無視しまくるために、副作用が激烈で、効果が切れると凄まじい激痛が服用者を襲うことになるとも思うのですが。
ワタクシもまあこういう阿片を服用したい、と考える人の気持ちはわからんでもないのですが、自分自身は「百姓家の長男」であるというどーしよーもない現実の縛りにより服用するわけにはいかんかったし、その現実の縛りがあるからこそ、阿片不要で生きていくことができるようになったわけでして。というわけで「最小の社会の構成単位である家庭を指向せよ、そこには副作用の少ない阿片があるぞよ」と言うことを訴えたいかな、と思い始めたのですな。だもんだから「萌え」という感情を掴まえて「それは父性だ。それを育てて心の平安の地を得よ」とか言い出してみたわけで。
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