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February 25, 2006

キモがってもらいたいオタクが案外多い件について

前回の書込みは、検索エンジンにひっかかるような単語を結構含んでいたせいで短時間のうちにあっちこっちに広まったみたいだった。で、短い感想とかも履歴辿って拾ってくることができた。

んで、基本的に前回のは、ワタクシが「オタク=キモイ」という定説(?)を政治的に破壊しようとしてぶち上げた話(つまり、アジ演説)であり、そういう意味ではオタクを救済するための文章だと言えるんだけど、これに対して批判的なコメントを付ける人が結構いた、ということにちょい驚いた。

つまるところ、オタクをキモイままにしておきたい、と考える人(無論ワタクシの文章に反応するのだからオタクである可能性が高い。類は友しか呼べないのだから)がそれなりの数いるらしい、ということだ。

まあそれについては事実として存在するなら認めちゃうし、本人がキモイ状態でいたいのなら放置するしかあるまい。つか、「キモイオタク」というカードを使わないと、「自分は何ものか」という問いへの答えを用意できなくなっている程、現代の社会っつーもんは崩壊しまくっているのか、とそっちの方に驚いた。

ワタクシは「萌え」の元祖は手塚治虫先生だと言っとるのだけど、「キモオタ」のルーツではないとは考えている。キモオタが等しく抱えているアイデンティティに対する危機感というのは、手塚作品には希薄だと思う。江戸時代から続く医者の家系で、自分もまた医者として世に出ているので、「自分は何ものか?」ということについて手塚先生はほとんど悩む必要がなかったためではないか、と思う。百姓家の長男であるワタクシにはその点よく理解できる。

んじゃあ「キモオタ」の元祖は誰かっつーと、ワタクシはこれを梶原一騎だと睨んでおるんすな。彼は「親も文士」つー根なし草のエリート家系に生まれてる。で、その生涯はつまるところ「自分探し」の連続であったと言えばそれで言い切れちゃうようなもんだったと思う。ついでに言うと、「よど号」の連中がほざいた「われわれはあしたのジョーである」という意味不明のセリフは、彼らもまた自分探しが必要な「根なし草」であると自任していた、とするとある程度理解できる。ちなみに、梶原作品に出てくる「自分探し」の意味はワタクシにとってはまるっきり説得力を持たない(それは作品的にすぐれている、すぐれていないとかのレベルではない)ので、その「面白さ」については、手塚先生同様不感症である。「どこが面白いのか俺に教えてくれ」という手塚先生のセリフの方に親近感を感じる。

それはともかく、上記の梶原的「わたしは誰?」は恐らく、敗戦のショックで親とか前の世代に対する信頼を一気に失った団塊世代に共通する心象風景であるんじゃなかろうか、と思う。んで、それは微妙に形を変えながらもその子の世代に受け継がれる。

彼らは「自分は誰?」という問いに対する一番簡単な答えが「家族の一員」だっつーのはわかってるんだけど、どーもリアルな親とはうまくいかない。それは半ば以上、その親がさらにその親の世代といがみあった因果が巡ってきてそうなったせいで、親とうまくいかない彼らのせいではないかも知れない。が、理由はどうあれ、うまくいかないという現実(第一現実)があり、それを補うように、妹・姉・母などと良好な関係を持つ「第二現実」が作り出されたんではないかなあ、とこう思うんである。

手塚作品においては、現在の「萌え」感情の対象である「目玉のおっきな、やわからそうなモノ」てのは明白に性欲の対象であったし、なおかつしばしば食欲の対象ですらあった。不思議なことに、リアル世界で「父」としての地位を確立していた(つまり、社会の中での自分の立ち位置を確保していた)手塚作品においては、オスの衝動(「ヤリてえ」、と「喰いてえ」)が強くアピールされるようになっており、リアル世界では「父」足り得ず、ただのオスとして生きていた梶原作品において、オスとしての衝動よりも心情的な結びつきの方が価値あるものとして描かれる傾向が強かったりするのね。

話がだいぶそれたけど、強引にまとめてしまえば、美少女(ちぬちぬ付きを含む)にハァハァしてしまう連中ってのは基本的にみんな手塚チルドレンなんだけど、それだけに留まらずより精神的な絆を求めようとする連中は、おおざっぱに言えば梶原派である、つーことになるのでは。

ワタクシの場合、無前提で「オタク」といったら手塚チルドレンのことを念頭に置いている。恐らく、世界的に見てもそこらが一般的な定義ということになるんではと思う。「キモオタ=梶原派」ってのは、声がでかく正統派を自称する少数派、つまるところは初期のボリシェヴィキみたいなもんだと考えておるのですよ。

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February 23, 2006

オタクがキモイと言われるようになったのはいつからだっけ?

20世紀の終わりから21世紀のはじめにかけては、「オタクはキモイ」というのは郵便ポストが赤いぐらいアタリマエのことだ、と言われるようになっていた。

だもんだからついつい、オタクはその発生当初から「キモイ」ものだと思わされちゃうんだけど、よくよく考えてみると、少なくとも80年代においては、オタクは「キモイ」ものではなかったような気がする。

この国におけるオタクの元祖は誰なのか、というと、そりゃあもうヴァンパイヤの系譜よりも明らかに、手塚治虫大先生が「真祖」であると言い切れる。で、手塚先生はキモかったか?答えは否だろう。どう弁護しても変人であることは免れない方ではあったが、ただそこにいるだけで時に生理的レベルに達する不快感を醸し出すような人物ではなかった。

現在大流行の「萌え」に直結する概念の創始者だとワタクシが勝手に断じている吾妻ひでお先生の場合、確か「不条理日記」だと思うが「正常だとサベツされてしまう」などというセリフを書込んでいた。それはアシスタントと比べると、自分は性倒錯の度合が低いのだ、と語ったものだが、性倒錯の度合が低くても、オタクとしてのディープさは、文句なしに吾妻先生の方が上だった。この時点においても「オタク」と「キモさ」というのは一致していない。

要するに80年代のオタク(まだオタクという言葉すらなかったが)は、単に「ヘン」なだけであって、「キモく」はなかった。そりゃまあ、後に「キモい」と呼ばれるようになる要素の萌芽みたいなもんはありましたよ。が、その「キモさ」の度合は、ディープなもんで田丸浩史氏描くところの「サムソン&アドン」の肉体程度であって、田亀源五郎氏の描く小太りの中年(しかも包茎)ぐらいの、もう逃げも隠れもできない境地にまでいっちまってはいなかったんじゃないか、と。

この「ヘン」さというのは、70年代に出た「がきデカ」「できんボーイ」の登場人物の「ヘン」さに通ずる。こまわり君にしてもちゃっぷまんにしても、人前で堂々と下半身を露出したりするが、その姿はあくまでも「ヘン」であって「キモく」はなかった。なんでかというと「内にこもるいやらしさ」というのが、彼らにはまるでなかったからだ、と思われる。

ともあれ、80年代までは、大部分のオタクはヘンではあったが、キモくはなかったんじゃなかろうか、というのが、ワタクシの記憶を掘り起こして得られた仮の結論なのである。

となると、オタクが「キモい」と言われるようになったのは90年代からだ、ということになる。で、今、オタクはキモがられているのか、というと、確かに30過ぎの大きなお友達はキモがられているんだが、20代や10代にとっては、オタクであることはごくあたりまえのことであって、オタクであるからキモいんだ、などと認識しているのはごく一部であるように思われる。

んー。こうやって考えると、「キモイ」のと「オタク論」とか「萌え論」てのを結びつけようとするのは、実はとんでもない間違いだった、という結論が得られそうだぞ。

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February 22, 2006

虹萌え男は脳内娘の夢を見るか?

あっちこっちのニュースサイトに掲載されたおかげで、ここのページのアクセスカウンタがすんごい勢いでぶん廻った。が、開設以来で比較すりゃあ、二番目だ(一番廻ったのは故ソ○トマジック倒産の時)。

とまあ、それはともかく、ウケたら話の続きをするのが正しい商業文筆業者の道なので、前回の続きなど。

ワタクシは1000年続いた百姓家の長男として生まれているので、基本的にその立場を「是」とし、その要となっている家父長の復権、というのが現在の諸問題の解決に寄与する、と思ってる。

家父長の立場の復権、とかは、石原閣下とか細木数子とかも提唱しているが、あれはワタクシにしてみれば本質を見失った粗雑な論に過ぎない。彼らは「家父長は無前提で偉い」と思いこんでいるが、実はそんなことはなく「ある責務を果たすからこそ、一定以上の権力が与えられる」というのが正しい。

責務についてあれこれ説明するとくどくなるのでここでは割愛しちゃうけれど、そのうちの一つは「祭祀」であり、もう一つは「経済的基盤の維持」である。これを果たすからこそ、妻子を持つ権限(これも半ば以上義務だけれど)が与えられるようになる、というわけ。閣下とかの場合、「経済的基盤の維持」という観点(よーするに、妻子を食わせるということだ)は割とはっきり見えてるけど、「祭祀」という観点が抜け落ちている。細木某の場合、一見「祭祀」を重要視しているようにも見えるが、結局のところ墓石業者のセールスレディの口上に過ぎないのでマトモに聞く価値はない。

人間が永遠の生命を持ち、なおかつその能力が無限に発展していくものである、と仮定すると「祭祀」なんざまるで必要はないのだけれど、残念なことに死なない人間というのはお話の中にしか存在しない。誰もが老いやがてくたばっていくのなら、そこらの始末を正当づける理屈が必要だし、能力の発展が中年以降停止するのなら、もうこれ以上上を目指すことのできない連中をなだめるための理屈が必要になる。要するに、「阿片としての宗教」が要るんだ、ということですな。

んでも、近代民主主義とやらを支えている啓蒙思想ってのは、困ったことに人間の寿命とその能力の発展の可能性を無限、と規定することを基礎にしてるようなんですな。確かにそう仮定すりゃあ阿片としての宗教は不要だわ。が、これが少なくとも現時点においては現実と乖離している仮定だ、ということは明らかなわけで。やっぱり、要るんですよ阿片が。

この手の阿片というのは、怪しげな人間によって上から与えられるモノと、自然発生してじわじわ拡がっていくモノの二種類があると思うんですわ。前者の品質は、おおむね教祖となる人間の能力に比例するんですが、全般的に低質ですな。高校の歴史の教科書と内容的にあんまり変わらない「経典」書いてる教祖さまとかいるし。期待するべきは後者だと思われます。まああたしゃ「萌え」なるキーワードによって顕在化したオタ男性たちの「救われる(=癒される)ための方法論」てのは、実は後者であると考えておるのです。

というわけで、「癒される」ためにはナニが必要なのか、ということを考えてみようかと。

若いオスの場合、とりあえずは「ヤリたい」という欲求が考えられますな。が、現在のオタの場合、前回書いたようにどうもそのあたりの欲求は希薄で、それよりは自己が社会的存在として有用である、ということを認めてもらいたい欲求の方が強いみたいっす。ちなみにオタの場合、特殊浴場とかに引っ張っていって一発やらせると、その後で「僕が求めていたものはこんなのじゃない」って腕組みして悩んじゃうんですよね。あたしゃ本田透他数名を使って実験し、こういう傾向があることを確認しております。

性欲は全く消え去ったわけではないし、オタ自身が自分の欲望が「社会の中で認められること」と「性欲の成就」の2種に分類可能であることを明確に自覚していないから、これらは大抵ごっちゃになってるんですけど、そんでも「社会的に認められる=第二現実」と、「性欲の成就=第三現実」という形でまとめることが可能だよ、というと「なるほどそうか」と納得しちゃう人は結構いるかと思います。で、ほとんどの人が第二現実が第三現実に優越すると考える、と。第一現実の位置がどこになるのかは、あんまり深く考えてないです。でも、人により凄く差があるような気がする。

第二現実こそが絶対であり、第一・第三現実を切り捨てて第二現実を純化することこそ救いへの道である、とでも要約できるような教義が、今オタさんの間でもてはやされているような気がするんですが、これは「阿片」としての効能だけで言えば効果は抜群だと言えるでしょう。第一現実を無視しまくるために、副作用が激烈で、効果が切れると凄まじい激痛が服用者を襲うことになるとも思うのですが。

ワタクシもまあこういう阿片を服用したい、と考える人の気持ちはわからんでもないのですが、自分自身は「百姓家の長男」であるというどーしよーもない現実の縛りにより服用するわけにはいかんかったし、その現実の縛りがあるからこそ、阿片不要で生きていくことができるようになったわけでして。というわけで「最小の社会の構成単位である家庭を指向せよ、そこには副作用の少ない阿片があるぞよ」と言うことを訴えたいかな、と思い始めたのですな。だもんだから「萌え」という感情を掴まえて「それは父性だ。それを育てて心の平安の地を得よ」とか言い出してみたわけで。

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